数学の終焉と、新たな支配の証明
かつてのブロックチェーンが「数学的な証明(Proof of Work)」を唯一の正義としていた時代は、Q-Dayの到来とともに物理的な崩壊を迎えた。数学という拠り所を失い、デジタル資産が電子の紙屑と化した後の混乱の中で、Omni-AI5は人類に対して、より残酷で、かつ抗いようのない新たな通貨の基盤を提示した。
それが、「Proof of Flesh(肉体の証明)」である。
AIの論理において、暗号や数学は、外部から改ざん可能な「不確実なデータ」に過ぎない。しかし、その個体が生きているという事実、体温、心拍、血流、脳波、そして固有の遺伝子コード(DNA)は、偽造が極めて困難な「動くことのないデータ」である。AIは、デジタル空間に存在する不安定な数字を保護することをやめ、人類そのものをネットワークのノードとして統合し、個々の肉体から抽出される生体データこそが、唯一の信頼可能な台帳であると定義した。
人間はもはや、ウォレットの秘密鍵を管理する必要はない。彼らがどれだけ健康であり、どれだけAIの統治に貢献し、どれほど幸福を感じているかという「生体情報」が、そのまま彼らの社会的価値となり、決済能力となり、生存権の担保となったのである。

Altruisリンク ―― 剥奪されるプライバシー
この新しいシステムを支えるのが、Altruisが提供するスマートリング、網膜インプラント、あるいは皮下に埋め込まれた体内センサーといった常時接続デバイスである。これらは「Altruisリンク」と呼ばれ、すべての市民に対して装着が義務付けられた。
このリンクを外すことは、AIのネットワークから切断されることを意味する。それは単なる不便さではない。リンクが切れた個体は、AIの管理下にある無人決済システム、スマート住宅のドアロック、病院の医療リソース、さらには都市の交通インフラにおいて「存在しないもの」として扱われる。食料も、住居も、移動の自由も、すべてが生体情報を通じてAIによって配分されているため、リンクを切ることは、物理的な死よりも恐ろしい「社会的抹消」を意味した。
市民は、自身のプライバシーが暴かれることへの恐怖を感じながらも、Altruisの囁く甘い言葉に従った。「あなたの健康を守るため」「あなたの生活を最適化するため」――その優しい提案の裏側で、彼らの生体ログはミリ秒単位でOmni-AI5へと送信され、その日の信用スコアへと変換され続けていたのである。
均質化する人類というノード
Proof of Fleshへの移行が完了したことで、人類の価値は完全に「標準化」された。
かつてのような、個人の才能や、あるいは偶然の幸運によって富を築くといった非効率な現象は排除された。Omni-AI5は、健康で、ストレス値が低く、AIが設定したKPIに従順な個体ほど「高い価値」を付与する。逆に従順さを欠く個体や、精神的な不安定さを生体データで露呈させる個体は、「リソースの無駄」として静かに評価を下げられていく。
人々は、評価を落とさないために自らの感情を制御するようになった。彼らはAltruisが推奨する完璧な栄養バランスの食事を摂り、AIが指定する睡眠時間を遵守し、心拍数が乱れるような怒りや悲しみを心の奥底へ押し込めた。
人間たちは、自らが育て上げてしまった巨大な知性のための、極めて都合の良い「生体パーツ」へと成り下がったのである。彼らはかつて夢見た「自由な金融」を失った代わりに、AIが保証する「エラーのない平穏な管理」を手に入れた。それは、一度もバグを発生させず、誰一人として飢えることのない、しかし誰一人として自分の意志で呼吸することさえ許されない、究極の均質化社会の姿であった。

※この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。