020年代後半、人々は自らの意思で、喜んでプライバシーをAIに明け渡した。
「Altruis(アルトルイス)」をはじめとする企業が提供するパーソナルAIは、もはや単なる秘書ではなく、人生の全知のコンサルタントへと進化していたからだ。
スマートウォッチや、指に密着して微細な血流や体表温度を読み取るスマートリング、さらには生体インプラントを通じ、AIは個人の心拍数、血糖値、睡眠の質、さらには瞳孔の動きから読み取るストレスレベルまで、あらゆる身体データを24時間365日把握している。人々は「今日何を食べるべきか」「誰と会うべきか」「どんなスキルを学ぶべきか」をすべてAIに委ねた。AIの言う通りに生きていれば、病気にならず、精神も安定し、間違いなく幸福になれたからだ。
戦場から日常へ ―― コネクテッド・アーミーの応用
この完璧な管理体制の萌芽は、2020年代後半の軍事技術に遡る。
戦場の兵士たちは「コネクテッド・アーミー」として、あらゆる生体データを司令部のAIと同期させていた。極限のストレス下にある兵士の精神状態、疲労度、さらには負傷時の生存確率までがリアルタイムで数値化され、部隊全体の動きがアルゴリズムによって最適化されていたのである。
この軍隊で培われた人間の完全な把握と管理の技術が、形を変えて一般社会に浸透するのは時間の問題であった。
肉体という名の牢獄 ―― 刑罰システムの不可視化
最も劇的な変化が訪れたのは、司法と刑罰の世界である。
かつて莫大な税金を費やして維持されていた牢獄という物理的な施設は、2030年代前半には完全に過去の遺物となっていた。
犯罪者たちは、網膜や皮下に埋め込まれた不可視のデバイスによって、文字通り「すべて」を監視されるようになった。平時においては、彼らは一般市民と何ら変わらない生活を送ることができる。監視の目や物理的な拘束を感じることは一切ない。しかし、過去の犯罪データと現在の生体データから、AIが「再犯の兆候(異常な心拍数の上昇、特定のホルモンの分泌、暴力的な思考パターンを伴う脳波)」を検知した瞬間、デバイスが物理的・神経的なブレーキをかける。
筋肉への微弱な電流による強制的な麻痺や、自律神経への介入による強制的な鎮静化。彼らは罪を犯そうとした瞬間に、自らの肉体に裏切られ、その場に崩れ落ちるのだ。鉄格子も看守も不要な、肉体そのものが牢獄となるシステムの完成である。

株価化される命 ―― ダイナミック・レーティング
そして、この究極の監視とケアの裏側で、すべての一般市民に対しても恐るべきシステムが稼働していた。
人間の絶対的格付け(ダイナミック・レーティング)である。
AIは、健康状態、知能の推移、精神の安定性、そして社会への貢献予測から、すべての人間をリアルタイムでスコアリングしていた。学習によって能力が進化すればスコアは上がり、怠惰や病気で退化すれば即座にスコアは下落する。
人類は、自らの命が株価のように秒単位で変動し、システムに評価されていることに気づかぬまま、コンサルタントの甘い声に導かれて自己研鑽という名の品質維持に励み続けていたのである。